20代で生きがいがないのは当たり前?人生のムダを楽しもう!

20代で生きがいがないのは当たり前?人生のムダを楽しもう!
悩みねこ

何のために生きているのか分からない・・・
毎日が辛いです・・・

今回はこんなお悩みを解決する本の紹介です。

人間は、生きることに「意味」が感じられないと、生きていけなくなってしまうという特質な性質を持つ唯一の動物です。

フランクルの「夜と霧」は有名ですが、この中で人間について重要な真実を述べています。

人間という存在は「生きる意味」を見失うと、精神が衰弱してしまうのみならず生命そのものまでもが衰弱し、ついには死に至ってしまうこともある

仕事なんか生きがいにするな
20代で生きがいがなく悩んでいる人は多いと思いますが、私の20代もまさに生きがいのない20代だったと言えます。

大学に入ったものの、生きがいが見つからず就職が怖くなり大学を中退してしまいました。

生きがいがないからと大学を中退してしまうと余計に後悔してしまいます。当たり前ですが、大学を中退したからといって生きがいが見つかるわけではありません。

詳しくは下記の記事で解説しています。
その後は、ずっと生きがいを探していましたが見つからずに10年間フリーターを続けました。

同級生が就職して働いている中、フリーターで定職にもつかず、自分が何者なのか分からなくなっていました。

ゲームの中の仮想現実に逃げ、不安の中でずっと生きてきました。

フリーターで生活してる人はいると思いますが、以下の理由で必ず後悔します。
そんな私ですが当時付き合っていた彼女が病気になり、「彼女のために医者になろう」とやっと医者になるという生きがいを見つけました。

しかし、結局何年も医学部再受験を続けているうちに彼女に振られてしまい、また生きる意味が見いだせず鬱を発症し、一年間何もできなかった苦い経験があります。

結局はやっと見つけた医者という生きがいをなくしてしまいました。


私が生きがいがなかったそもそもの原因は何だったのでしょうか?

私たちはどれだけ心の中の不足しているものを充足させて束の間の幸せに至っても、まだ足りない足りないと言い始めます。

そして、ありきたりな富や成功を貪欲に追い求め、情報収集に取りつかれています。

しかし、若者を中心として物質的・経済的な満足がある種の飽和点に達してしまい、「生きる意味」が見出せなくなっています。

まさにこれが、『生きがいがなくて辛い』状態です。

要するに私に生きがいがなかったのも、中流層のそこそこ裕福な家庭で物質的にも経済的にも不自由や苦労がなく育ったからです。

ではこんな世の中で私たちはどうやって生きがいを見つけていったらいいのでしょうか?

結論だけ述べれば、人生なんてものは『生きがいなんて必要ない』ということです。

ほとんどの人にとっては、人生は平凡です。

どうしてそれがだめなのでしょうか?みんなが生きがいを持って仕事をしていると思いすぎです。

私は理学療法士という医療職で患者さんに『ありがとう』と言われると生きがいを感じることはあります。

しかし、患者さんの嫌な面をみると、生きがいどころか仕事をやめたいと思ってしまいます。

人生なんて所詮そんなもんです。若い頃は分からないかもしれませんが、日々の生活の中の『小さな幸せ』に気付くことからはじめることをお勧めします。

※この記事は泉谷閑示の著『仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える』を参考にしています。
目次

生きがいがない 20 代

少しでも楽に行きたい

だらだらとスマホを触る女性
バカンスねこ

少しでも楽に生きたいぜ~

最近の若者に多い言葉です。

すべてがそうだと思いませんが、親の敷いたレールをそのまま生きてきて、自我の芽を摘まれてしまった若い世代にこの傾向が多いです。

今まで親にレールを強制されてきた分、若い世代の中には「もうこれ以上何かを強制されたくない」と望んでいる人達が多いと思います。

そうなると「少しでも楽にいきたい」と思うのは必然ですね。

人は「主体性」を奪われた状態のままで、自力で人生に「意味」を見出すことは原理的に難しいものです。まずは、人生の「意味」を求める前に、「意味」を感知できる主体、すなわち、「自我」を復活させることから始めないといけません。

仕事なんか生きがいにするな
しかし、自分がやりたいと思っていることをやっているつもりでも、youtubeをみたり、twitterをやったりと暇つぶしをしてしまっているということはないでしょうか?

消費社会が生み出す「受動的人間」

上司の指図で仕事をする受動的に生きる女性
一見、主体的に動いていると思われる能動的な活動においても、それが心の空虚さを紛らわすために消費社会によって生み出された外からの影響で動いているなら、その活動は「受動」でしかありません。
バカンスねこ

俺は友達とも遊んでるし~、自己投資もしてるから主体的に動いてるぜ!

一見、大丈夫そうにみえても「空虚」からの逃避が本当の目的ならば、これは「受動」となんらかわりありません。

寂しいから友達と遊ぶ、暇だからゲームをするでは自分で主体的に行動できているとはいえません。

現代人の心の飢え

ベンチに座っている心が飢えている男性
20代は「すぐに役に立つもの」「面白おかしいもの」「親しみやすいもの」に傾斜する傾向にあります。

そのせいもあってか、「生きる意味とはなにか」「働くとはなにか」といった問いをこれまでずっと無視し、考えてこなかったのではないでしょうか。

毎日が楽しければいい、面白ければいいと思っている20代はとても多いように感じます。

私は2回大学生活を経験していますが、15歳以上年下の20代の友達は、「毎日が楽しければそれでいい」と言っていました。

彼らにとってはそれが生きる指針なのだと実感できます。

しかし、「生きる意味とはなにか」「働くとはなにか」のような哲学的な問いを考えても答えが出ないのならば、毎日の充足感を求めてしまうのは当然な成り行きな気がします。
しょんぼりねこ

はぁなんで働かないといけないんだろ・・・

受動意識仮説

電話をしながら男性を疑う女性
「受動意識仮説」とは慶応義塾大学大学院の前野隆司が提唱したものです。

受動意識仮説とは、普段私たちは自分で意思決定をしていると考えています(能動的な主体)が、実はその「能動的な主体」が受動的な主体ではないかというものです。

つまりは、自分の行動は意識でなく無意識に決定されているのではないかと「受動意識仮説」は考えます。

この無意識は、これまでの知識や経験の蓄積によって形成され、自動的に自分の意志が導かれるというものです。

過去に騙された経験があれば、無意識に「人を疑う癖」がついてしまいます。

私は今までに何度か他人に嘘をつかれたことがあり、それによって信用できなくなっています。
他人と距離感を極端に取ることを覚えてしまいました。これはもう一生治らないでしょう。

逆に、人に優しくされた経験が多ければ、無意識に「人を助ける」ことが当たり前になります。

自分の経験が「すぐに役に立つもの」「面白おかしいもの」「親しみやすいもの」に傾斜すれば、無意識に自分の人生に充実感を与えてくれるものを求めるようになります。

逆を言えば、充実感を与えてくれないモノは忌避するようになるのではないでしょうか。

充実感を与えてくれず、ただ疲れるだけの労働は自分の中で『意味のないモノ』と認識されてもおかしくありません。

仕事は何のため?

「仕事」の凋落

仕事にやりがいが感じられない男性
産業革命以来始まった大量生産は、人間の熟練や専門化によってなされていた「仕事」を分業化された「労働」というものに貶められてしまいました。

現代の分業化による「労働」では、やりがいが感じられず、むしろ虚無感や徒労感を生み出してしまいます。

仕事と労働の違い

荷台で荷物を運ぶ引越しスタッフ
  • 仕事:職人的な誇りをもっており、金銭などの目的はあるが、強制されているわけではなく、むしろやりがいを感じている
  • 労働:生きるためにやっており、受動的な要素が強い。ただ苦役として目の前のことを処理していく。
本来は人間的な手応えを得られるはずの「仕事」がいつのまにか「労働」というものにすり替わり、すっかり変質してしまいました。
そして、「労働」こそが価値を生むモノであるという価値観が社会経済の根本的価値観となってしまっています。

つまり、「働かざる者食うべからず」といった資本主義の精神が力を持ってしまいました。

こういった事情により「働くこと」は奴隷的で非人間的なものにかえてしまったのです。

想像性もなくただ言われたことをやれでは、強制的なものと感じられ単なる労働にすり替わってしまいます。

労働から解放されればどうなる?

自然の中でくつろぐ若い日本人ビジネスマン
かといって、「労働」からまったく離れてしまえば、人間から活力と生命を奪い去ってしまいます。

定年後何もするわけでもなく、ただボーと毎日を過ごしている老人をみればよく分かります。
無職の方にも活力や生命力が感じられません。

最近ではFireが流行っていますが、労働から解放されて毎日退屈ではないのかと思ってしまいます。

しかし、だからといって「労働」によってほとんどが占められるような生活もまた、決して人間的な生活とは呼べません。

毎日遅くまで残業をする。休日もなくひたすら働く。仕事が好きならいいですが、仕事が好きでないのならば、高給であっても家族のためとはいえ地獄でしょう。

私は仕事は適当でいいと思っています。理由としては、必死になればなるほど自分を追い込んでしまうからです。

仕事は必死にやったからといって能力を最大限引き出せるわけではありません。

仕事は必死にやったからといって正当な評価が得られるわけではありません。

詳しくは下記の記事を読んでみてください。

生きる意味を問う

人間性を取り戻すためには?

人間性のある女性の写真
では人間性を取り戻すにはどうしたらいいのでしょうか?

私たちはいったん「儲かる」とか「役に立つ」といった「意義」や「価値」をひたすら追求する「資本主義の精神」から解放され、人間として「意味」が感じられるような生き方を模索しないといけません。

私としては完全には「儲かる」ことを放棄することは難しいですが、顧客のニーズに答え、適格に悩みを解決できれば、そこにやりがいが生まれると信じています。

私はリハビリ職をしていますが、患者さんからの「ありがとう」という言葉やリハビリをして機能の回復がみられるととてもやりがいを感じることができます。
といっても、これらのことは私の考えでは極論であって、やはりベースに自分が生きていけるだけの収入や自分が頑張った分だけ給料が上がるシステムを作らない限りは、精神的に満足は得られないと思います。

安定した生活ができるぐらいの収入があってこそのやりがいといえるでしょう。

人はやりがいだけでは生きていけないのです。

意味と意義の違い

無邪気に遊ぶ子供たちの写真
人生を生きる意味はなんだろうとよく考えます。

人生を有意義に過ごしたいとも思っていますが、『生きる意味』と『生きる意義(人生を有意義に過ごすこと)』の違いはなんでしょうか?
  • 意義:損得勘定に関係しているもの
  • 意味:「心=身体」による感覚や感情の喜びによって味わうもの
 私たちは、生きる意義と考えた場合、「人生は価値のある事をしなければいけない」という呪縛の中で生きています。

したがって、「心=身体」による感覚や感情の喜びによって味わうものを感じるような生き方を想像する余裕すらない状態にいます。

私が子供のころは、夢中になってお絵描きしたり、粘土で遊んだりしましたが知的教育にいいからとやらされていたわけではありません。

今は何かと創造性を付けるためのお絵描きや粘土遊びのおもちゃが売ってたりしますが、子供の遊びにすら損得勘定が生まれてしまっているのです。

今では子どもの頃からの「意味」が消え去り、生きる喜びとは無関係な損得に勘定に関係する「意義」に重点を置いてしまっています。

一度損得勘定を抜きにして遊んでみてはどうでしょうか。

求めるものは、ただ自分が好きで夢中にやっているかどうかだけです。

休みの日も勉強することはもちろん良いことですが、オンとオフを切り分けて、思いっきり遊んでみましょう。

生きる「意味」を感じる

高齢者と楽しくお話をする介護士たちの写真
人が生きる意味を感じられるのは、決して「価値」あることをなすことによってではありません。

「心=身体」が様々なことを味わい、喜ぶことによって実現されます。

生きる意味を考えるとき、「本当の自分」を求めると思いますが、それを仕事という狭い範疇で考えてしまっています。

これからは理想の仕事を探すのではなく、理想の仕事を自分で作ったり、働くことを中心に置かない人生を歩んだりすることが必要となってきます。

また、「労働」と呼ばれるものでもいかに「仕事」に近づけるか。そういった工夫も必要になってきます。

40代ともなれば、意欲も低くなり仕事に対してもプライベートに対しても、積極的に取り組むことができなくなります。

そうならないように40代でも枯れずに生きていく方法を学ぶ必要があります。

「生きがいがなくて辛い」という考えをやめるべき

雨の中を傘をさして歩く女性の写真
「生きがい」を誰もが求めるのは『充実した人生』を送りたいからだと思います。
そもそも充実した人生なんてあるのでしょうか?

毎日は、ただ平凡な1日の繰り返しです。
それは、どんな刺激的なことをしていても結局人は慣れてしまう生き物だからです。

非日常を毎日繰り返ししていても、いつかは非日常が日常に変わってしまいます。

大きな幸せを手に入れても結局は慣れてしまいます。
成功しては慣れ、結婚しても慣れ、また平凡な毎日の繰り返し。

それならば、人生とは「平凡な毎日の繰り返しだ」と考えた上で生きた方が楽だと思います。

私も「生きがい」を求めて医学部再受験を志し、成功者になりたくて10年間必死に勉強しました。
しかし、10年たった今残ったものは、ただ辛い10年だったということだけです。

私は毎日の中で、ちょっと嬉しかったことがあれば十分だと思っています。

今日もご飯がおいしかった。家族が元気だ。家があって安心だ。今日も健康で過ごせる。

「生きがい」や「充実した人生」という言葉に惑わされず、毎日の中でちょっと嬉しいことを見つけてみてください。
得ることよりも気づくことが大切です。

20代で生きがいがないのは当たり前!

読書の途中で笑顔で遠くを見る女性
生きがいがない20代は、『生きる意味』を考えるとき、取り違えて『生きる意義』を考えてしまっています。

価値があることしかない意味がないという呪縛が生きることを難しくさせてしまっているでしょう。

これからは、生きる上で「心=身体」が様々なことを味わい、喜ぶことを重点に置くことでもう少し柔軟に人生を生きられるようになるのではないでしょうか。

結局は損得勘定を抜きにして、自分が楽しく喜ぶことをしていけばいいということです。

「何のために生きているのか分からない」という質問の答えとしては、『自分にとって生きがいとは何だろう』なんて考える必要なんてまったくないということです。

私は今41歳ですが別に生きがいがあって生きているわけではありません。みんな一緒です。

充足感を味わいすぎると、何も求めなくなってしまうので無気力な状態になってしまっているだけです。

行動をして新しい刺激を入れていけば、無気力な状態からは脱することができます。

人生のムダを楽しみましょう。効率的に生きるだけが人生ではありません。
のんねこ

ゆったりのんびりした時間を味わっています。それが私の生きる意味

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