【どっか行きたい病】どこでもいいからどこかへ行きたい pha

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【どっか行きたい病】どこでもいいからどこかへ行きたい
悩む猫

急にどこかに行きたくになります。どうしてでしょうか?

私は、急にどこかへ行きたくなる人に向けて、「どうしてそんな気持ちになるのか」を考えてみたいと思う。
参考にするのは、phaさんの著書『どこでもいいからどこかへ行きたい』だ。

私もふとした瞬間に、理由もなく「どこかへ行きたい」と感じることがある。
でもその感情って、ただ観光地を巡ったり、旅行を楽しみたいという単純なものなんだろうか?

たぶん違う。
私たちが本当に求めているのは、インスタ映えするような旅行でも、有名な観光地の写真でもない。
少し息苦しくなった日常から、ほんの少し離れて、自分の心をリセットしたいという衝動なのかもしれない。
悩む猫

何かしたいわけじゃなくて、ただ遠くに行きたい気分なんだ。

実際のところ、私が「どこかへ行きたい」と思うのは、楽しい気分のときよりも、むしろ疲れているときの方が多い。
仕事でストレスがたまって、何もかも投げ出したくなるようなとき——そんな瞬間に、ふと「どこかへ行きたい」と感じる。

インスタ映えするような旅行やおしゃれな旅は、見ている分には楽しいけれど、あれはお金がある人の特権みたいなものだ。
正直、貧乏人にとってはかなりハードルが高い。
だからといって、旅を諦めたいわけでもない。

私が求めているのは、もっと素朴で、静かな時間だ。
高級ホテルや有名観光地じゃなくて、近くの公園でも、知らない街の喫茶店でもいい。
「ここじゃないどこか」に身を置くことで、心のノイズが少しだけ減って、自分がリセットされていく。

結局のところ、どこかへ行きたいという衝動は「非日常を楽しみたい」よりも、「日常から少し離れたい」という心の叫びに近い。
それは誰にでもある自然な欲求で、むしろそういう瞬間を感じられること自体が、人としてまだ柔らかく生きている証拠なのかもしれない。
悩む猫

旅行は、お金はかかるし、人ばかりだし余計に落ち込むよ。

私の本音は、旅そのものを楽しみたいというより、ただ現実から少し距離を取りたいだけなんだと思う。
行きたい場所があるわけでも、何か特別な目的があるわけでもない。
ただ、今の生活から一歩離れて、自分の呼吸を取り戻したいだけだ。

そんなときに出会ったのが、phaさんの『どこでもいいからどこかへ行きたい』という本だった。
タイトルからして、まるで私の心の中をそのまま言葉にしてくれているようだ。

著者のphaさんも、理由もなく無性にどこかへ行きたくなることがあるらしい。
そして実際に、現実から少し距離を取るために、定期的に出かけているという。
彼は「今までと違ったことをして、違う場所へ行ってみる」ことを勧めている。
でもそれは、インスタ映えするような観光地に行けという意味ではない。
近くの知らない道を歩いてみたり、いつもと違うカフェに入ってみたり、ほんの少し日常の線をズラすだけでいい。

私たちは、毎日の中で知らないうちにいろんなストレスを抱えこんでいる。
忙しさや責任に追われて、気づいたら心がカサカサになっている。
そしてそのまま日々を繰り返していると、自分の体や心のSOSに気づけなくなる。

だからこそ、日常から距離を取ることはとても大事だ。
ほんの少し離れてみることで、初めて見えてくるものがある。
この本は、そんな「立ち止まる勇気」や「離れることの意味」を教えてくれる。
どこかへ行きたい気持ちは、逃げではなく、「もう一度、自分に戻るためのサイン」なのかもしれない。
目次

「どっか行きたい病」と向き合う:本当に求めているものは何か?

phaさんはどんな人?

ノートにメモをする男性
phaさんは、かつて「日本一有名なニート」というちょっと不思議な肩書きを持っていた人だ。
長いあいだ「ギークハウス」というシェアハウスを運営していて、そこにはいろんな個性を持つ人たちが集まっていたらしい。
社会の“普通”から少し外れた生き方をしている人たちが、そこで自分のペースで暮らしていた。

今のphaさんは一人暮らしをして、文章を書くことで生計を立てている。

若い頃はエネルギーがあったので、「何か大きいことをやらなきゃ」という思いも多少はあったんです。それでいろいろやってきたけど、この歳になると「自分にできるのはたいしたことじゃない」「自分が頑張っても、世界は変わらない」と気づいてしまったんです。

どこでもいいからどこかへ行きたい
正直、けっこうダメなところもあるけど、私ももう44歳だから、その気持ちは痛いほどわかる。
人生の半分を過ぎると、自分の限界とか性格のクセなんかが、だいたいわかってくる。
そうなると、「努力して何かを掴む」よりも、「残りの時間をどう楽しく過ごすか」に意識が向く。
しょんぼりねこ

歳を取ると、夢を追いかけるとか、何かを頑張るとかエネルギーがどうしてもわかなくなってくる・・・

もし残りの半分を必死に頑張って、結局何も手に入らなかったら、きっと空しさだけが残る。
でも、楽しみながら生きていれば、たとえ何も残らなくても、後悔はしない。
努力してきた時間はもう十分ある。
だからこれからは、頑張るよりも「味わう」方向にシフトしていいと思う。

最近の私は、できるだけお金をかけずに、ソロ活を楽しむようにしている。
カフェでゆっくり本を読んだり、知らない町をふらっと歩いたり。
誰かに認められなくても、自分のペースで穏やかに過ごす時間が、今はいちばん心地いい。

たぶん、人生の後半は「成果」じゃなくて「余白」をどう楽しむかだと思う。
静かで小さな幸せを拾いながら生きるほうが、ずっと豊かだ。

どこかに行く=観光地巡りではない

日本中を旅する若い女性
どうしても「旅行」というと観光地巡りのイメージが強い。
目的地で遊ぶことが中心で、移動時間を楽しむ人はあまりいない。

僕が旅に求めているのは、珍しい経験や素晴らしい体験ではなく、単なる日常からの距離だけです。

どこでもいいからどこかへ行きたい
でも私にとっての旅は、ちょっと違う。

毎日、決まった時間に起きて、同じルーティンをこなし、同じ道を通って会社へ行く。
帰ってきたらまた同じことの繰り返し。
同じ場所、同じ風景、同じ人たち。
そんな「変わらない日常」から少しだけ距離を置くこと——それが私にとっての旅だ。
それ以上は何も求めない。

旅で一旦日常をリセットして距離を取って振り返ってみると、普段の生活のおかしさや行き詰りや、もしくはなんでもないようなことが幸せだったと気づいたりする。

どこでもいいからどこかへ行きたい
移動中の車や電車の中で、ぼんやりといろんなことを考える。
「どこへ行っても街の風景ってそんなに変わらないな」とか、「綺麗な景色を見ても、案外すぐ飽きるもんだな」とか、「これからの人生、どうしていこうかな」とか。

そうやって日常から少し離れてみると、今の生活の良さに気づくことがある。
不満ばかり言ってたけど、思っていたよりも自分は幸せだったんだな、と。
それに、何かを“得よう”としすぎていた自分にも気づく。
もっとゆるくていいし、もっと何もなくていい。

旅そのものに特別な意味はなくても、「距離を取ることで生まれる気づき」には確かな価値がある。
たぶん旅の本質は、楽しむことじゃなくて、「日常を見つめ直すための余白」をつくることなんだと思う。
しょんぼりねこ

日常から距離をとるのって大切・・・。
毎日幸せだったんだな。

人生を劇的に変えてくれるもの

呆然と海を眺める女性
多くの人が、人生を劇的に変えてくれる何かを求めている。
環境を変えれば、仕事を辞めれば、旅に出れば、自分が変わるんじゃないか——そんな期待を抱いてしまう。

でも、phaさんはその幻想をやさしく壊す。
結論から言えば、「そんなものは存在しない」と彼は言っている。
人生が劇的に変わる瞬間なんて、映画の中の話だ。

憧れていたものを実際に手に入れても、世界も自分も大して変わらなかった。人生を劇的に変えてくれる「何か」なんて存在しなかった。

どこでもいいからどこかへ行きたい
恥ずかしながら、若いころの私は「夜の営みをしたら本物の男になれる」と本気で思っていた。
今思えば、あの頃は妙な理想やプライドに支配されていた気がする(笑)。

たしかに人生には転機と呼べる瞬間がある。
けれど、結局のところ人間の本質なんてそう簡単には変わらない。
どんな環境に身を置いても、時間がたてば慣れてしまう。
しょんぼりねこ

人生を変える出会い、本、旅・・・そんなものは存在しなかった

新しいことに挑戦しても、最初のうちは刺激的でも、いずれは慣れ、やがて飽きがくる。
その繰り返しの中で、「ああ、人生ってこういうものか」と、
少し悟ったような気持ちになる。

でも、私はそれでいいと思っている。
人間は慣れる生き物だからこそ、日常の中に安定を見いだせる。
飽きることを恐れずに、また次の小さな楽しみを見つけていけばいい。
変化を追いかけるより、「慣れ」を受け入れるほうが、ずっと楽に生きられる気がする。

世界に画期的な変化なんてほとんど起こらなくて、ほとんどは少し世界の見方を変えることで何かが変わった気がするだけだ。

どこでもいいからどこかへ行きたい
考え方ひとつで、世界の見え方が変わることがある。
私は何度もそういう瞬間を経験してきた。

特に、『青い鳥』という本を読んだときは衝撃だった。
それまで「幸せは努力して手に入れるもの」だと思い込んでいたけど、この本を読んで、「幸せは求めるものじゃなく、気づくものなんだ」と知った瞬間、世界ががらりと変わった。

病気をしていようが、生活保護を受けていようが、仕事がうまくいっていなかろうが、実は幸福って、すでに自分の足元にあったりする。
それに気づけるかどうかは、外の状況じゃなく、自分の心の向け方次第なんだと思う。

幸せって、未来にあるものじゃなくて、「今ここ」に目を向けた瞬間に立ち上がるもの。
それに気づけたとき、ようやく「探す旅」から解放される。
しょんぼりねこ

親が元気でいる、毎日ご飯が食べれる、自分を大事に思ってくれる職場がある・・・幸せだったな~

どっか行きたい病が引き起こす日常のマンネリ化

日常がつまらないのはあなただけではない

ソファでくつろぐ笑顔の日本人女性の横顔
日常というのは平凡で退屈で閉塞感だらけのつまらないものだけど、つまらないのは自分だけじゃない。みんな自分と同じように、このシケた現実の中のシケた現実の街で暮らしている。それしかないのだ。よかった。自分だけじゃないんだ。
どこでもいいからどこかへ行きたい
どこかへ行きたいと思うのは、毎日の生活が少し退屈でつまらなく感じるからだと思う。
でも、それは私だけじゃなく、きっとみんな同じだ。

同じ毎日を繰り返していると、気づかないうちに心が鈍ってくる。
どこにも行かずにじっとしていると、日常という名の退屈に押しつぶされそうになる。
だからこそ、たまにはどこかへ出かける必要があるんだと思う。

旅に出て少しの非日常を味わいながら、「どこに行っても100%満足できる場所なんてないんだ」と改めて知る。
そして帰ってきて、「やっぱり家がいちばん落ち着くな」と思う——
その感覚こそが、旅のいちばんの醍醐味だ。

非日常のきらめきや、旅先で感じた小さなワクワクを持ち帰ることで、またいつもの平凡な日常を少し頑張れる。
それが旅の本当の役割なんじゃないかと思う。

旅は現実逃避じゃなく、「日常をもう一度好きになるための小さな寄り道」なのかもしれない。

どっかに行って気分が晴れても、長続きしない

ソファで考えごとをする女性
旅をすると一瞬だけ日常から解き放たれたという解放感があるけれど、その気分は瞬間的な幻想で長続きはしない。旅だってずっと続けていると日常に変化してしまう。
どこでもいいからどこかへ行きたい
どこか遠くへ行くことには、確かに解放感がある。
知らない景色を見て、新しい刺激を受けると、心が軽くなる。
最初は「どこへ行こうか」「何を食べようか」「どこに泊まろうか」とワクワクする。
けれど、ずっと遠くに出かけていると、その刺激にもいつか慣れてしまい、旅そのものが日常に変わっていく。

結局のところ、人間は同じことを繰り返していると退屈を感じる生き物だ。
毎日同じように働いても、刺激を求めて旅に出ても、どちらにしても、最終的には同じ場所にたどり着く。

でも、私はそれでいいと思っている。

禅の言葉に「安閑無事(あんかんぶじ)」というものがある。
何も特別なことがなく、ただ穏やかに過ごせている状態こそが、本当の幸せという意味だ。
たとえ毎日が単調で、面白いことがなく、金もなくて、「この人生つまらないな」と思う瞬間があったとしても、その退屈を感じられるということ自体が、実はすごく貴重なんだ。

退屈を感じるというのは、病気で寝込んでいないということ。
家族が元気で、働ける場所があって、社会の中で何かしらの役割を果たせているということ。
その穏やかな日常こそが、すでに幸福のかたちなんだと思う。

だから、どこか遠くへ行くという行為は、退屈な日常を壊すためじゃなく、「今の生活がいかに大切なものだったか」に気づくための時間なんだ。
旅は、非日常を楽しむためのものじゃなく、“日常をもう一度好きになるための儀式”なんだと思う。

どっかに行くことで家の良さが分かる

自宅でストレッチをする女性
結局、自分が欲しいものは最初から全て小さい部屋の中にあった。外に何かを求める必要はない。
どこでもいいからどこかへ行きたい
私がどこか遠くへ行きたくなる理由は、たぶん「家の良さを改めて再確認するため」なんだと思う。

距離にもよるけど、どこかへ出かけるとたいてい疲れる。
遠くへ行けば行くほど、知らない環境に身を置けば置くほど、帰ってきたときの安心感が強くなる。
「やっぱり家がいちばん落ち着くな」と心から思える。

逆に、家にずっといると、それはそれで息が詰まってくる。
不思議なもので、人は同じ場所に居続けることにも飽きてしまう。
だから結局、定期的に“離れること”が必要なんだ。
今いる場所の良さに気づくためには、一度そこから距離を取らないと見えなくなる。

出かけても、必ずしも楽しいとは限らない。
お金は使うし、疲れるし、時には「来なきゃよかった」と思うこともある。
それでも、なぜかまた「どっかに行きたい」と思う。

たぶんそれは、遠くへ行くことで“今ある幸せ”に気づくためなんだと思う。
旅の目的地は、実は家なんだ。
出かけて、疲れて、帰ってきて、「なんだかんだ言って、ここがいちばんいい」と思える——その循環こそが、生きていくうえで大事なリズムなんだと思う。

散歩の仕方

海を散歩する女性

遠くまで海外旅行をしたとしても、物を見る姿勢に新しさがなければ、ガイドブックに載っている情報をなぞるだけで何も新しい気づきを得ずに終わるだろう。

どこでもいいからどこかへ行きたい

細かい場所に面白さや新しさを見いだせる視点さえあれば、家の近所を散歩しているだけでも毎日新たな発見がある。既知と思っていることの中にもいくらでも未知は隠れているものだ。

どこでもいいからどこかへ行きたい
私は自転車より散歩が好きだ。
理由は単純で、歩くほうがゆっくりだからだ。
速度が遅いぶん、細かいところに気づける。

同じ場所でも、季節の移り変わりがよくわかる。
アジサイが咲けば梅雨の訪れを感じ、蝉の声が止むと「ああ、夏も終わりか」と少し切なくなる。

少しいつもと違う道を歩くだけで、新しい発見がある。
「こんなところに神社があったのか」と驚いたり、「この細い道を抜けたらどこに出るんだろう」と、ちょっとした冒険心が湧いてくる。

遠くへ行かなくても、近くで十分に冒険できる。
目線をほんの少し変えるだけで、どんな場所にも小さな楽しみが隠れている。

だから私は、散歩を“動かない旅”だと思っている。
目的地なんてなくてもいい。
ただ歩いて、風や光や音を感じるだけで、心がゆっくり整っていくのがわかる。
しょんぼりねこ

近所を歩いているとたまに挨拶されるから、ちょっと嬉しい

どっか行きたい病のあなたへ

旅行をする女性(失恋・傷心旅行・悲しい)
ここで紹介した以外にも、『どこでもいいからどこかへ行きたい』には、サウナの魅力や、高速バスの魅力、漫画喫茶の魅力など、いろんな“旅”の楽しみ方が書かれている。

観光地に行くだけが旅じゃない。
日常に飽きて、気分が沈んでしまうようなときは、少し日常から距離を取るために、旅に出てみるといい。

たとえば、電車に乗って知らない駅で降りてみる。
そのまま、駅のまわりをぶらぶら歩いてみる。
それだけで、「この町の空気はこんな感じか」とわかってくる。
同じ日本でも、町によって匂いや雰囲気、空の色まで微妙に違う。
それに気づいた瞬間、小さな感動が生まれる。

たとえ遠くへ行かなくても、今までとほんの少し違う行動をとるだけで、非日常はすぐに生まれる。

結局のところ、旅は距離の問題じゃない。
心の向きを少し変えるだけで、いつもの日常が、ちゃんと旅になる。
のんねこ
ミニマリスト
現在は理学療法士という医療従事者として働いていますが、かなりの底辺な人生を歩んできました。

22歳で大学中退⇒フリーターを10年以上経験⇒医学部再受験失敗⇒33歳で理学療法士養成大学に進学⇒37歳で理学療法士として初就職しましたが、人間関係のトラブルで40歳で無職に逆戻り。なんとか転職先を見つけて現在働いています。
こういった経験からお金を大切に使うためにミニマムに生きることにしました。

失敗ばかりで成功体験なんてほとんどありませんが、私と同じように社会の底辺の方でも、ミニマリストになることで人生を上手く生きていく方法をご紹介できたらと思います。
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